動き出す妖怪展

あずきとごうか人とって食おか。ケラトプスユウタです。

好きな妖怪は、あずきとぎ、かさばけ、いったんもめん、ぬりかべ、のっぺらぼう、がしゃどくろ、うしおに、火車、ひとつめこぞう、ばけぞうり、はりおなご、かにぼうず、あめふり天狗、あかりなしそば、いしなげんじょ、海座頭 etc. です。

品川の寺田倉庫で開催中の『動き出す妖怪展』に侵入してきました。

開催概要は公式サイト(外部リンク)をご覧下さい。

さて、当ブログは“恐竜旅行ブログ”を語っていますがなぜ妖怪展を扱うのか? およそ無関係に見える恐竜と妖怪という概念ですが、恐竜展と妖怪展ということになると「不在の存在をいかに現前させるか」という点で共通していますとこじつけたところで早速行きましょう。

「怪」の字に目の意匠があるのが怪しくて良いですね。

ここで“動き出す”と読んで不安をおぼえたんです。というのも、展示会で(本来動かないはずのものが)「動く事」を売りにしているということは、そういうことじゃないですか。どういうことかと言うとまさにアニマトロニクスがメイン展示になている恐竜展なんかが良い例なのですが、対象そのものが主役なのではなくテクノロジーが主役になってしまっているんじゃないかと、つまりこの場合は僕が観たかった「妖怪」そのものではなく、妖怪が動いているように見せるテクノロジーがメインになってしまっているのではないかという不安ですよ。

では実際どうだったのか。続きをご覧ください。

“妖怪とは–未知を言語化し理解するかたち”

アマチュア妖怪研究家ケラトプスユウタとして言わせてもらいますと、妖怪の成り立ちっていくつかあると思ってまして、詳しく説明するには僕のやる気が足りないのですが、ざっくり紹介すると以下の通りです。

①原理不明かつ再現性のあるなんらかの現象(自然現象、生理現象、人為的なものも含む)を説明するための装置としての妖怪。自然現象だと「こだま」や「やまおろし」はわかりやすくこれにあたると思います。生理現象だと、幻覚や病気のような異常なものや、空腹や睡眠のような日常的なものに関連する妖怪などを想定しています。

②実在の亡くなった生物(主に人物)の祟りや執念を恐れた人々の想像由来の妖怪(幽霊): 三大怨霊の菅原道真、平将門、崇徳天皇は明確にそうですし、「さらかぞえ」もそうかもしれません。

③野生動物、病変のある生物(ヒト含む)、変質者、犯罪者等を妖怪と解釈: これはいずれも不確実ですが、「つちのこ」、「やまんば」、「がんばり入道」などが可能性としては否定できないと思います。

④物や場所に人格を見出すアミニズムないし完全なフィクション(子どもを躾ける為の創造や商業的な創作を含む): 前者は主に付喪神の事です。アミニズムにしろフィクションにしろ実在を信じる余地が皆無という点で共通ですが、造られた事に理由があるものとないものがこの中に混在していると思います。

なお、これらは常に妖怪学について考えているわけではないアマチュアの思いつきなので、抜けがあったり、逆に今更過ぎる事も言ったりしている可能性が高いです。詳しい方はぜひご教示頂けますと幸いです。

とにかく何が言いたいかと言うと、“妖怪とは–未知を言語化し理解するかたち”というのは確かに妖怪が担ってきた重要なエッセンスではあるのかなと思うのですが、一概には言えなくて本質でもなく、ここで述べた①に該当する妖怪たち以外には該当しづらいのではないかという事です。

「はじっかき」と「馬鹿(うましか)」だそうです。

はじっかきはいくつかの絵巻に描かれているそうですが、どういう性質の妖怪かは伝わっていないそうです。

馬鹿(うましか)は目が上に飛び出したウマの頭部やたてがみをもち、角と蹄はシカを表しているみたいです。そしてばかっぽいポーズをとってふざけているのでしょう。馬鹿(バカ)という言葉から着想を得てデザインされたと考えられているそうです。

古風な和室がプロジェクション・マッピングによって妖怪だらけに。

碁で対局する「白蔵主」と「ぬらりひょん」

模型というか、おそらく着ぐるみのようなものが展示用に調整された姿だと思います。

キャプションによるとぬらりひょんは“妖怪の総大将”とも言われるとの事ですが、階級社会性のある妖怪のようです。

ぬえ。立ち上がっていますが、これも着ぐるみのようなものが配置されているだけで動きはしません。

ぬえは四足歩行に近い形態のイメージですが、大阪のおばちゃん型のバリエーションもあるんですね。

ぬえは今日ではトラツグミ Zoothera aurea の鳴き声から想像された妖怪と広く理解されており、デザインの哺乳類らしさに反して恐竜類と縁のある妖怪だったりします。

暗い空間に赤い照明を活用して、まさにお化け屋敷の雰囲気を出しています。

意外に思われるかもしれませんが、本展は全体としてホラー演出は控えめで、来場者を怖がらせる意図はほとんど感じられませんでした。

妖怪やお化けというと一般的には「怖いもの」という印象が付き纏うのかなと思いますが、それらは社会や自然と連続したものとして、少なくとも僕は観ています。

妖怪は特別に異質な恐ろしい存在というよりも、森羅万象に対する一つの古典的な解釈のかたちであり、身近で素朴な存在とも言えるのではないかと思います。

実在の生物ではないという意味では存在しないのですが、その一方で、人類、特に日本人の感覚や経験を通して伝統的に信じられ、伝承として継承されてきたという点において、単なる虚構と断ずる事もできません。

この僕の観点は、本展の穏やかな演出とも整合していたように感じます。

「あみきり」、「青坊主」、「朱の盆」など。

殿様のような格好のカエルもかわいらしいです。

これも本来は着ぐるみである関係だと思うのですが、体に比して頭部が大きすぎるものが多い気がします。でも朱の盆はそもそも頭の大きさに特徴のある妖怪ですよね。

青坊主は鳥山石燕『画図百鬼夜行』(Wikimedia Commons)のデザインを元にしていることがわかります。

日本人形風かと思いましたが、よく見ると顔の造形に特徴があり、手足が大きいようです。座敷童子なのかもしれません。

藤の花は魔除けになるそうですが、そのわりにはここも妖怪だらけでした。

花の香りを再現する装置が設置されており、視覚だけでなく嗅覚にも働きかける展示が印象的でした。なお、東京スカイツリーで開催された『ニオイ展+』でも同様の試みが見られましたが、あちらは嗅覚そのものを主題とした企画であり、本展ではあくまで世界観を補強する要素としてひっそりと取り入れられていた点に違いがあり、展示全体の文脈にさりげなく馴染んでいたように感じられます。こうした感覚の広がりを意識した演出は、体験の奥行きを深める工夫の一つと言えるでしょう。

匂いを利用した展示手法は古生物系では扱いが難しく、安易に導入しても解釈の裏付けを欠きやすいため、同じ形での応用は難しいかなと思ってしまいますがいかがでしょう。

階段状の構造を活かし、プロジェクション・マッピングによって妖怪が現れては動き出す演出が施されており、空間そのものが“怪談”を語るような映像体験を生み出していました。階段だけに。

2枚とも昔話の『舌切り雀』の強欲なお婆さんが大きなつづらを開けたら妖怪や化け物が出てきたというクライマックスのシーンを描いたもの。

作者違いの作品なのですが、「和服を着た三つ目の人型の妖怪」や「お婆さんのリアクションがわかりやすい」、「妖怪は戯けた仕草や表情で強い害意のあるものではなさそう」などの点に共通点があります。

また、左の作品の“目が飛び出た妖怪”がなんらかの古生代の海洋無脊椎動物に見えてしょうがないです。

それにしても分岐学における恐竜類の定義に使用されているスズメがなぜ妖怪詰め合わせのつづらを持っていたのか不思議です。もしかしたらこの妖怪たちは本当は絶滅した恐竜たちだったのかもしれませんね(意味不明)。

葛飾北斎の手による『百物語』の『しうねん』

ヘビが執念の象徴として扱われていて、位牌と遺品にまとわりついている姿で故人の執念を表現しているとのこと。文献ではヤマカガシとされているようですが、模様からするとそうは見えませんし赤色が使われるのではないかと思います。背中に斑紋があるので個人的にはアオダイショウの幼蛇かマムシの方が似ている気がします。

位牌には梵字に見えるように横向きの顔らしきもの、その下の戒名にその下に享年と戒名に見えるように「茂問爺」とあります。江戸時代には化け物のことを「ももんじい」と言っていたそうで、ジビエ・獣肉を意味する「ももんじ」やリス科のモモンガと同一語源のようです。

江戸時代に野獣と妖怪の区別がなかったわけではないと思いますが、山は里と異界の境界領域で、野獣も妖怪も同じ領域に属する存在として認識されていたのかもしれませんね。動物個体から連続的に変化して妖怪化すると考えられていたものもありますしね。

キャプションでは「不気味」と形容されていましたが、ヘビのかわいらしい仕草が先に来てしまいますね。僕はね。

釜鳴(鳴釜)とケラトプスユウタ。

言葉は少ないですが明るくフレンドリーな方でした。持ち主に大切にされていた付喪神ということがわかります。

釜鳴は鳥山石燕『百器徒然袋』の釜が肩幅よりも大きく頭でっかちに見え、両サイドに火がついていて目が無いデザイン(Wikimedia commons)の方が好きですが、妖怪なのでこういう解釈もありですね。

写真は以上です。

いかがだったでしょうか。

トリケラトプスやティランノサウルス、その他の古生物はすでに絶滅しており、生きた姿を直接観察することはできないと考えられています。我々が目にするのは骨や生痕といった情報の断片、またはそれらから推定された二次情報であり、証拠かそれめいたものがまったく残っていないところまで復元するには、必然的にイマジネーションという名の闇が介在します。

一方、天狗や雪女は、そもそも実在の証拠がなく、伝承や絵画、口伝を起点として視覚化された存在なのかなと思います。

と言うわけで、古生物は「証拠に想像を加えて拡形を与えられる存在」、妖怪は「想像だけで形を与えられる存在」と言えますが、どちらにせよ我々のイマジネーションに大きく依存して成立する点では共通していると言えますよね?

ここで重要になるのは、展示は真実を提示するものではなく、「納得できる可能性のあるビジョン」を構築しているに過ぎないという点です。

恐竜展示においては、例えば羽毛の生え方や体の模様などは、最もよく知られた化石恐竜でさえ不確かであり、学術的制約の中で最も妥当とされるイメージが提示されているにすぎませんよね。

この妖怪展も、古生物ほどシビアではないにしろ、なんらかの制約の中で妥当とされるイメージが提示されていると感じました。

このような比較を通じて、恐竜展示の本質も「えんらえんら」のようにぼんやりと浮かび上がります。つまり恐竜展示は科学的根拠に基づいてはいるものの、我々が普段体験したり提示したりし得るものの多くは演出や補完によって成立しているということです。

恐竜展を見慣れた視点で妖怪展に向き合うと、まず強く感じられるのは、根拠の重さが意図的に外された表現のライトさです。恐竜展示では、化石という物理的なエビデンスが必ず起点となり、その上に復元が堆積します。なので姿勢や肉付き、皮膚表現に至るまで、どこかで「これはどの程度までデータに拘束されているのか」という視点が常につきまといます。

けれども妖怪展では、その制約が僕の視点ではほとんど存在せず、映像や光、時には匂いの演出が直接的に体験を生み出していました。この差によって、普段は意識していなかった恐竜展示のエビデンス依存性が、ソリッドな輪郭を持って感じられてきましたね。非常にね。

同時に、妖怪展のプロジェクションマッピングを見ていると、今まで観てきた恐竜展示では普通に行われていた演出手法、たとえば映像展示、ライティングによるマウントの陰影の強調や視線誘導などのあり方がより露骨で人為的だったようにも感じられます。

恐竜展ではそれらは「自然な見せ方」として違和感なく溶け込んでいますが、妖怪展では演出そのものが縁の下の力持ちではなく主役として前景化しており、来場者の知覚がどのように操作されているのかが、来場者自身が客観視してしまう構造でした。

妖怪展に晒された事によって、恐竜展示においても、標本そのものだけでなく、演出を含めた全体設計によって体験が構築されていることに自覚的になったということです。

あと言いたいのは、納得のプロセスの違いです。

恐竜展では、標本や前提知識によって我々は段階的に理解を積み重ね、「こうであろう」と納得していきます。

妖怪展では、論理的な裏付けを経ることなく、視覚や音響によって一撃で「こうだ」とわからせられてしまう。妖怪は見せられてしまった情報が一つの正解の姿であり、そこに不正解がないとこっちが知っているからです。

この対比を体験することで、恐竜展示における納得もまた、完全に論理だけで成立しているわけではなく、視覚的説得力や空間演出に影響されていることが見えてきます。

このように、恐竜展を先に経験していることで、妖怪展は「展示がどのように現実感を構築するか」をさらけ出す装置として感じられてきます。

おかげさまで、当ブログにおいて妖怪展を扱うことは単なる寄り道ではなく、「見えないものをどのように見せるか」という展示の根本的な問題を検証する試みとなりました。ありがとうございます。

恐竜は光(証拠)を起点に闇(想像)をひろげられる存在であり、妖怪は闇を起点に闇をひろげられる存在です。

この両者を反復横跳びすることで、僕がどのようにして存在を疑い、どのようにしてリアリティを感じているのかがわかってきたと信じたいです。

前置きが長くなりましたが以下感想です。

①実は展示の大部分が広々とした部屋の壁に投影されたプロジェクション・マッピングの映像展示で構成されていたんですよ。その撮影は動画も含めて推奨されていたのですが、こちとら「映像展示は撮影禁止が当たり前の世界」で長く生きてきた妖怪なので、もはや映像を撮ろうという発想すら起こらず、掲載した限りの写真しか記録できていないことを謝罪したいです。特に百鬼夜行の再現はシンボル展示と言って良いほど見ものでした。

②平安時代(奈良時代だったかも)の「怪異」や「鬼」の概念から、江戸時代の大衆に愛されるようになっていったキャラクターとしての妖怪、現代の誰も信じていないけどアニメやゲームのヒーロー/ヴィランして存在する妖怪まで、妖怪の歴史について、過去の妖怪画家の作品と共に学べたのがよかったです。

③「妖怪縁日」という章は、輪投げ、発掘ごっこ、玉入れなど極限レベルに簡素で積極的に挑戦する気も起こらなかったのですが、明らかに40歳の男がターゲットではなかったことがわかります。直前の展示がアカデミックでアダルト向けだった為、この妖怪展というものを全年齢向けに調整するための工夫と好意的に理解しました。

単一の事柄に対して子供用と大人用のキャプションが分けられていたのが良かったです。機会があれば真似したいところです。しかしながら、大人向けキャプションは文章自体こそ読みやすく構成されているものの、印刷サイズが過剰に大きく、壁面の上部にまで及んでいるため、通常の目線の範囲外に配置された文字が多く見受けられました。その結果、内容のわかりやすさに反して、配置としては必ずしも読ませる設計になっておらず、過去に類を見ないレベルのいわば「お化けキャプション」とも言える状態でした。

映像に登場する妖怪のほとんどが少数の特定の絵巻に実際に描かれている妖怪の使い回しでした。メジャーな妖怪があまり登場しないわりに、マイナーな妖怪ばかりが何度も異なる展示で現れることに違和感をおぼえました。利用可能な資料が限られている事による制約とは存じますが、ラインナップに偏りを感じたのは否めないです。

⑥ 起源や分布・元の画の描かれた時代が異なる妖怪同士が映像内で同居しすぎなんです。まるで異なる時代・地域の恐竜が一箇所に集結しているジュラシック・パークのよう。例えば、多くの人が実在を信じていたであろう「かっぱ」のような未確認動物的な種族妖怪、「かさばけ」のような付喪神、「さらかぞえ」のような元人間の幽霊、深山の妖怪、シナントロープな妖怪、これらが単一の共同体の中で社会性をもって存在しているのが妖怪のくせにあまりにも俗っぽく、あまりにも本来の民俗学的な文脈から逸脱しているように感じたましが、それこそまさに現代人の妖怪観だよなぁと思えて非常に良かったです。

以上!!

ご興味ある方はぜひ足をお運びください。

炭火焼干物定食 しんぱち食堂 人形町店の『サーモンハラス定食』美味しかったです。

それじゃ👋